前回の続きです。山本五十六記念館に続いて河井継之助記念館も訪ねてきた記録を掲載します。
■参考①前回分
【育児コラム 育児は育自】小旅行編:山本五十六と河井継之助という偉人を訪ねて その1 - 歴史人物の子孫を育てるパパ日記
■参考② 河井継之助記念館
河井継之助記念館 | 幕末の越後長岡の風雲児
その先進的な思想に時代が追いつかなかった隠れた偉人
中学時代に「燃えよ剣」を読んで司馬遼太郎さんの作品に魅かれたのですが、大学時代に再度夢中になったのが「峠」という作品でした。
記念館のウェブサイトにはこう記載があります。
激動の幕末、戊辰戦争において、越後・長岡藩を率いて新政府軍に徹底抗戦したことで知られる継之助ですが、本来目指していたのは『武装中立』でした。
諸藩が新政府・旧幕府に分かれて争うなか、他力に頼らず、冒されず、己の力で生きていくことを志向した継之助。
しかし、その先進的な考えは理解されず、開戦へと突き進み、戦いのなかで落命していくこととなります。
あの長岡の地で独立国家を目指し、後に明治政府が目指す富国強兵を先行して進めたのが河井継之助でした。
実際に当時日本に3台しかなかったアームストロング砲を2台揃えていたというから驚きです。
「これからは商人になれ」
Wikipediaに拠るとこう記載があります。
近く身分制がなくなる時代が来るからこれからは商人になれと伝えた。後に外山はこの継之助の言に従って商人となり、日本の発展を担った有力実業家の1人として活躍した。
河井本人は新政府軍との戦いがきっかけで命を落としてしまいますが、その先に来る時代も見越していた点は本当に先見の明があった方だったのだと思います。
もしこの方が明治維新後も生き延びて、子どもたちのご先祖様たちと一緒に新政府の新時代を生き抜いていたらどんな会社が生まれていたかと思います。坂本龍馬もしかり、民間企業や資本主義の時代になることを見通していた偉人たちが寿命を全うしていたら時代や社会がどう変わっていたか、どんな事業が興っていたかと実に興味深いものです。
革新や開発は遅くてもダメだし、早すぎてもダメだと言われます。子どもの才能もその時代にあった咲き方、評価のされ方があるのでしょうね。親としても古き良き古典を学びつつ、先の時代の趨勢にも敏感でいたいものです。