歴史人物の子孫を育てる雑草パパ新聞

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【連載: 漫画『ONE PIECE』ワンピースで学ぶ世界史】第43〜68話 腹にくくった"一本の槍"、大戦槍に勝利したルフィと大戦争(百年戦争)で勝利した仏ジャンヌ・ダルク

この連載は無料公開されている『ONE PIECE公式漫画アプリ』から中学校社会科の歴史、高校世界史や日本史、そして現代世界情勢への興味・関心を引き出していくプロジェクトです。第43〜68話に登場する「腹にくくった一本の槍」からジャンヌダルクについて関心を広げます。

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[長子作: ドン・クリークを打破るルフィ]

■ 腹にくくった"一本の槍"、信念

第65〜66話ではドン・クリークとの戦いがクライマックスを迎えます。圧倒的に不利と見られるルフィを見つめるサンジに発したゼフの言葉、そしてその言葉通り勝利するルフィを見てサンジは考えます。

ゼフ「・・・・クリークのかき集めた艦隊も武力 百の武器も毒も武力なら あの小僧の"槍"も同じ武力ってわけだ」
サンジ「槍…」
サンジ回想ゼフ「全身に何百の武器を仕込んでも 腹にくくった"一本の槍"にゃ 敵わねェこともある」
サンジ「信念・・・」

これでもかこれでもかと言うほど飛び出す武力にルフィが素手で戦い続け、最後にクリークを打ち破る姿は爽快ですね。

世界史でも圧倒的な武力を前に信念をもって戦いを挑み、勝利を導いた人物がいます。
時は15世紀、フランスのジャンヌダルクです。

今回はこのジャンヌダルクとその信念について調べてみます。

ジャンヌ・ダルクって誰??多くのフランス政治家が崇敬する人物

まずは概要、定義からいきましょう。
Wikipediaにはこうあります。

ジャンヌ・ダルク(フランス語: Jeanne d'Arc、古綴:Jehanne Darc[注 1]、IPA: [ʒan daʁk]、英: Joan of Arc、ユリウス暦1412年ごろ1月6日[注 2] - 1431年5月30日)は、15世紀のフランス王国の軍人。

フランスの国民的ヒロインで、カトリック教会における聖人でもある。

「オルレアンの乙女」(フランス語: la Pucelle d'Orléans[4]/英: The Maid of Orléans[5])とも呼ばれる。

ジャンヌ・ダルク - Wikipedia

イングランドとフランスの百年戦争で活躍した人物ですね。

ジャンヌは現在のフランス東部に、農夫の娘として生まれた。

神の啓示を受けたとしてフランス軍に従軍し、イングランドとの百年戦争で重要な戦いに参戦して勝利を収め、のちのフランス王シャルル7世の戴冠に貢献した。

その後ジャンヌはブルゴーニュ公国軍の捕虜となり、身代金と引き換えにイングランドへ引き渡された。

イングランドと通じていたボーヴェ司教ピエール・コーションによって「不服従と異端[6]」の疑いで異端審問にかけられ、最終的に異端の判決を受けたジャンヌは、19歳で火刑に処せられてその生涯を終えた[7]。

19歳で生涯を終えたんですね。現代日本で言えば大学生くらいでしょうか。
そして火刑、火あぶりですので壮絶な最期で生涯を終えております。

フランスを救い、シャルル7世の戴冠に貢献したことから、ジャンヌは西洋史上でも有名な人物の一人となった。

ナポレオン1世以降、フランスでは派閥を問わず、多くの政治家たちがジャンヌを崇敬しているといわれる。

世界的に著名な作家、映画監督、作曲家たちがジャンヌを主題とした作品を制作している。

さてこのジャンヌダルクですが、どういった生い立ちと信念だったのでしょうか?

■農民の娘、ジャンヌ

世界史の教科書にも"農民の娘ジャンヌ=ダルク"との記載がありますが、調べてみると改めて本当に貴族でもなんでもない農民であることが分かります。

ジャンヌはジャック・ダルクとイザベル・ロメ(英語版)の娘として生まれた。

父ジャック・ダルク(1380年 - 1440年)がロメと呼ばれていたイザベル・ヴトン(1387年 - 1468年)と結婚したのは1405年のことで、2人の間にはジャクマン、ジャン、ピエール、ジャンヌ、カトリーヌの5人の子が生まれている[注 4]。


ジャンヌが生まれたのはバル公領の村ドンレミで、当時のバル公領は、マース川西部がフランス領、マース川東部が神聖ローマ帝国領で、ドンレミはマース川西部のフランス領に属していた。

バル公領はのちにロレーヌ公国に併合され、ドンレミはジャンヌの別称である「オルレアンの乙女(ラ・ピュセル・ドルレアン(la Pucelle d'Orléans)」にちなんでドンレミ=ラ=ピュセルと改名されている[19]。


ジャンヌの両親は20ヘクタールほどの土地を所有しており、父ジャックは農業を営むとともに、租税徴収係と村の自警団団長も兼ねていた[20]。

当時のドンレミはフランス東部の辺鄙な小村で、周囲をブルゴーニュ公領に囲まれてはいたが、フランス王家への素朴な忠誠心を持った村だった。

ジャンヌが幼少のころにドンレミも何度か襲撃に遭い、焼き払われたこともあった。

この農民の娘が"救国の信託"を受けることになります。

神の声を聴く
のちにジャンヌは異端審問の場で自分は19歳くらいだと発言しており、この言葉の通りであればジャンヌは1412年ごろに生まれたことになる。

さらにジャンヌが初めて「神の声」を聴いたのは1424年ごろのことで、当時12歳だったと証言している。

このとき一人で屋外を歩いていたジャンヌは、大天使ミカエル、アレクサンドリアのカタリナ、アンティオキアのマルガリタの姿を幻視し、イングランド軍を駆逐して王太子シャルルをランスへと連れていきフランス王位に就かしめよという「声」を聴いたという。

聖人たちの姿はこの上なく美しく、3名が消えたあとにジャンヌは泣き崩れたと語っている[21]。

強い信仰心が彼女の脳内でこのようなイメージを作り出したのではないかと考えてしまいますが、世界史の中で見られるこのような神の啓示は思い込みなのか本当に超常現象なのかは謎ですね。

ただこの経験がジャンヌにとっての強い揺るぎない信念をもつきっかけとなりました。

百年戦争、オルレアン包囲戦

さて、このジャンヌが世界史の舞台に駆け上がったのが百年戦争、そしてオルレアン包囲戦です。

まずは百年戦争を見てみましょう。

百年戦争(ひゃくねんせんそう、英語: Hundred Years' War、フランス語: Guerre de Cent Ans)は、フランス王国の王位継承およびイングランド王家がフランスに有する広大な領土をめぐり、フランス王国を治めるヴァロワ朝と、イングランド王国を治めるプランタジネット朝およびランカスター朝というフランス人王朝同士の争いに、フランスの領主たちが二派に分かれて戦った内戦である。

国家という概念は薄い時代であり、封建諸侯の領地争いが重なったものであったが、戦争を経て次第に国家・国民としてのアイデンティティーが形成されるに至った[8]。

現在のフランスとイギリスの国境線が決定した戦争でもある。

百年戦争は19世紀初期にフランスで用いられるようになった呼称で、イギリスでも19世紀後半に慣用されるようになった。
百年戦争 - Wikipedia

"国家・国民としてのアイデンティティーが形成されるに至った"と言う点は歴史的に意味のある出来事なのでしょう。

次にオルレアン包囲戦です。

オルレアン包囲戦(Siege of Orléans)は、イングランドとフランスの百年戦争においてターニングポイントとなった、フランスのオルレアンで1428年10月12日から1429年5月8日にかけて起きた戦闘である。

この包囲戦は、ジャンヌ・ダルクの主要な軍事行動における最初の勝利であり、1415年にアジャンクールの戦いで敗れた後のフランスにとって、最初の大きな勝利であった。

この包囲戦の結果、その後のイングランドの軍事力は下降線となっていった。


オルレアンはイングランド、フランスの双方にとって、戦略的にもシンボルとしても重要な街であった。

現代の一致した意見としては、仮にオルレアンが陥落していたならば、イングランドの摂政ベッドフォード公ジョン・オブ・ランカスターにより、フランス全土を征服するというヘンリー5世の野望が実現されていたというものである。

半年間にわたりイングランドが優勢であったが、ジャンヌ・ダルクの到着後9日間で、イングランドによる包囲は崩壊した。

オルレアン包囲戦 - Wikipedia

■常識に囚われないジャンヌダルクの槍

そもそも農家の娘がなぜこの大きな戦争で快進撃をあげられたのでしょう。

調べてみて思うのは、農家の娘だったからこそ軍人の常識に囚われずに戦いについて進言、行動できたのではないかと思います。

そしてもう一つは彼女の信念に周りが鼓舞されたということが挙げられるかもしれません。

ジャンヌはそれまでフランス軍の指揮官たちが採用していた消極的な作戦を一新した。

ジャンヌが参戦するまでのオルレアン包囲戦では、オルレアン守備軍が積極策を試みたのはわずかに一度だけであり、この作戦は大失敗に終わっていた。


ジャンヌのオルレアン到着後の5月4日にフランス軍が攻勢に出て、オルレアン郊外で東のサン・ルー要塞を攻略し、5月5日にはジャンヌが軍を率いて、放棄されていた南のサン・ジャン・ル・ブラン要塞を占拠した。

翌日に開かれた作戦会議でジャンヌはデュノワの慎重策に反対し、イングランド軍へのさらなる攻撃を主張している。

デュノワはこれ以上の戦線拡大を防ぐために、攻略軍が布陣する市街の城門閉鎖を命令したが、ジャンヌは市民と兵卒たちを呼び集め、当地の行政責任者に城門を開けさせるように働きかけることを命じた。

結局ジャンヌはある一人の大尉の手引きでこの市街を抜け出し、サン・オーギュスタン要塞の攻略に成功している。

■首に矢傷を負っても戦い抜くジャンヌダルクの槍

ルフィは何度もクリークの矢のような刃物をうたれていましたが、最後は引かずにクリークをぶん殴りました。
ジャンヌダルクも傷を負いながら勝利を目指したようです。

5月7日にイングランド軍主力の拠点である「レ・トゥレル」への攻撃を主張した[33]。

ジャンヌと行動をともにしていた兵士たちは、ジャンヌが首に矢傷を負ったにもかかわらず戦列に復帰して最終攻撃の指揮を執るのを目の当たりにしてから、ジャンヌのことを戦の英雄だと認識していった[注 6]。

■投石機の石弾が命中しても引かないジャンヌダルクの槍

矢どころではありません、投石機の石弾が命中していたようです。大戦槍の爆撃のような感じですね。

イングランド軍に勝利してオルレアンを解放したフランス軍は、6月12日にジャルジョーの戦い、6月15日にモン=シュル=ロワールの戦い、6月17日にボージャンシーの戦いと、イングランド軍に占領されていた領土を次々と取り戻していった。

ジャンヌの上官ジャン2世は、ジャンヌが立案するあらゆる作戦をすべて承認した。そして当初はジャンヌを冷遇していた指揮官であるデュノワたちもジャンヌのオルレアンでの戦功を認め、ジャンヌの支持者となっていった。ジャン2世はジョルジョー解放戦で、間近で起こる砲撃を予見して自身の生命を救ったジャンヌを高く評価していた[35]。

このジョルジョー解放戦では、攻城梯子を登っていたジャンヌの冑に投石器から発射された石弾が命中して、梯子から転落しそうになったこともあった。

■石弓の矢が足に当たっても戦い続けるジャンヌダルクの槍

クリークは最後に甲冑を砕かれ海へ落下しますが、その最中にルフィの自由を奪うべく網を放ちます。
ルフィはそれでも怯まず攻撃し続けて、クリークを撃沈させました。

ジャンヌダルクも足に矢が当たっても戦い続けたようです。

イングランド軍の司令官ベッドフォード公ジョンが率いるイングランド軍とフランス軍が対峙したのは8月15日で、戦線はそのまま膠着状態となった。

フランス軍がパリへ攻撃を開始したのは9月8日である(パリ包囲戦)。

この戦いでジャンヌは石弓の矢が当たって脚を負傷したが、最後まで戦場に残って軍の指揮を直接執り続けた。

しかしながらジャンヌは9月9日の朝に、ギュイーヌ伯ジョルジュ・ド・ラ・トレモイユの意を汲んだシャルル7世からの撤退命令を受けた。

何百年も昔のことですが、教科書の奥にある歴史を見ていくのは本当に興味深いですね。
それにしてもジャンヌダルクの信念、恐るべしです。

■参考文献①今回のテーマを深掘り

■参考文献②筆者の基本セット

・『ONE PIECE公式漫画アプリ』
ONE PIECE公式漫画アプリ

・教科書、用語集、人物辞典他

■あとがき

信念の強さでジャンヌ・ダルクとつながったのですが、負傷のレベルもルフィに負けず劣らずでなかなか良いシンクロでした。

ご覧いただきありがとうございました!
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